クリスマスミサ

クリスチャンではないのだけれど。
クリスマスイブ、ミサに参加するのが好きだ。
小、中、高、いや幼稚園からカトリックの学校で育ったせいか、教会とかお祈りとか、なぜか気持ちが落ち着く。

水道橋から歩いて徒歩7分のところに、カトリック神田教会というのがある。
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賑やかな白山通りを一筋入ったところ。
え?と意外に思うほど、静かなたたずまい。
神田教会は、明治7年に、フランシスコザビエルに捧げる聖堂として創設された。
大正12年の大震災で建物が失われ、今あるのは昭和3年に建てられたもの。
有形文化財に指定されている。
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教会の内部は、撮影禁止だった。残念。
デコラティブの真反対にあるようなシンプルな造りだったが、歴史という味がしみこんでいて、来る人を優しく迎えてくれる。

6時のミサの15分前に到着したら、すでに「満席」で、この日のために設営された奥の仮設スペースのパイプ椅子に座ることになった。
でもそこには、モニターテレビがあって、祭壇の前の司祭さんの様子などわかるようになっている。
それにしてもすごい人の数。老若男女……東京にこんなにカトリック信者がいるのかと改めて思う。

カトリック神田教会を教えてくれたのは、小、中の同級生W君。クリスチャンである。
「クリスマスのミサに行かなーい?」
とナンパしてみたのだが、翌日すなわち今日が胃カメラ検査なので、家にいる予定という。
その代わり、この教会をすすめてくれた。
胃カメラにご聖体が写ったらおもしろかったのになあ。
「お、ゆうべはミサですか」
とお医者さんが言ったりして。

ご聖体というのは、ミサの最後に信徒(昔は、信者さんと呼んでいた)がいただくもの。
白くて薄くて丸い、大きさは100円硬貨ぐらい。
子供の頃、あれがうらやましくって。
見るからにおいしそうではないのだけれど、やはり「神聖」な「特別」なおそれおおいもの、というイメージがずっとあった。

「信徒でない方も、司祭の祝福が受けられます」
というアナウンス。
これが最近の傾向らしい。非信徒がすねないために(笑)。
わたしも列に並んで、司祭さんの前に立った。
「祝福をお願いします」
司祭さんは、軽く頭に手を触れ、祈ってくださった。
少しだけ、子供の頃の憧れが実現した。
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ミサの後、フランシスコザビエルの遺骨を公開するというので、また列にならんだ。
「ごろん」と骨が出てくるのかと思ったら、写真右のような不思議なカタチをした置物が目の前にあった。これのどこかに遺骨が納められているのだろう。

カナダに旅行したとき、モントリオールのノートルダム修道会を訪ねたことがある。
わたしが通った学校のいわば「大本山」。そこにも、修道会を起こしたシスターの遺骨が安置されていて、日本で教鞭をとったことのあるシスターに日本語で「見ますか?」と言われ、ものものしい置物の前で、思わず十字を切ったことがある。
習慣とはおそろしいもので、友達とふたり、打ち合わせもなく同時にそうしたのだった。

話が長くなってるけど。
そう、ここは「遺骨」つながり。
教会って遺骨が好きなのかなあ、と。日本のお墓参りは近しい人との再会みたいなものだが、カトリックではどんな意味があるのだろう。

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ミサの後、中庭では、お菓子が配られ(写真)、熱い紅茶が振る舞われた。
場内の案内もすべて、信徒さんたちだろうと思われるが、みな楽しそうに立ち働いていた。
前に行ったことのある教会では、こんな雰囲気はなかった。
同じ宗派でも、教会ごとに社会への開かれ方がちがうのは、当然のことだろう。

同じ頃、四谷の聖イグナチオ教会のミサに出かけたMちゃんは、満席のため中に入れなかったという。
そのときすでに2回目の7時半のミサのために、上智大学の方まで列ができていた。
Mちゃんは、あきらめて、馬小屋の前でお祈りをして帰ってきたという。
クリスマスを、心静かに過ごしたいという人が増えてるのだろうか。
祈りの時代、ってなんか手垢がついてるけど、実際そうなのかもしれない。

ミサが終わってみなが出口に向かっているとき、ひとり残って跪き、ひたすらお祈りをしている女性がいた。
祈りたいと思うときに、祈りの言葉を持っている。
ご聖体とはまた別に、少し羨ましかった。

クリスマスミサ” への2件のフィードバック

  1. 金くん、お久しぶり!
    洗礼を受けてる人受けてない人、分け隔てなく。
    っていいですよね。教会への垣根がとっぱらわれます。
    ミサは、洗礼受けてなくても行っていいの? と言ってた人もありました。
    ダブリン一度行ってみたいなあ。
    黒ビールを飲みに!

  2. 私が通う同志社教会でも、聖餐に預かる日は洗礼を受けている人、受けていない人を区別することなくパン(肉)と葡萄酒(血)を食することができます。何故なら、イエスが生涯の中で
    そんな、区別をしなかったからです。食に関しても万人、分け隔て無く分かち合いました。勿論、イエスが聖餐式を行ったのはゴルゴダの丘に登る前夜だけですが。プロテスタント教会でも聖餐式のあり方の意見が別れているのが現状です。日本基督教団内でも同志社、関学大系の牧師は、リベラル派が多く、東京神学大、青山系は保守的立場の方が多いようです。
    これを機会にどうぞ、頻度を高めて教会に足を運んでください。
    12月14日から二日ほどダブリンで過ごしました。勿論、トリニティー・カレッジの図書館も訪問しました。福音四書(ケルズの書)の美しさは圧巻でした。
    本来の目的はジェームス・ジョイスの足跡を辿ることが目的でした。
    御元気で。

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